9月の花


9月の花

暑かった夏も、9月に入ると急に涼しくなりました。あの猛暑は何だったのか。

今日は早くも9月末、恒例の花のムービーをアップします。

昨年の9月はグラウンドゴルフなど倶楽部活動で忙しかった。

また外出が多く、特に月末には田舎吉田町に帰省した。

今年はコロナ禍、遠出自粛で近場の公園に行く機会が多く、花を撮る枚数が増えました。

家に籠ってブログ、フェースブックの日々でした。この状態がいつまで続くのでしょうか。

ジッと我慢の子ですね。このフレーズはチト古かったかな~

 

 長月にあきずき食す月夜かな

 

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アーカイブ 2016新年会

 ブロガーは2015年春に「白桜会」という地元(白井市桜台)高齢者クラブに入会しました。

現在は、会員が90名弱、平均年齢80歳と、立ち上げ当時の平均65歳が高齢化しました。

今年はコロナ禍でクラブの活動、総会も中止になりました。

新年会、暑気払い、落語、お楽しみ会など全てキャンセルです。

 

2016年の新年会の映像を編集しYoutubeにアップしました。

4年前なので鬼籍に入られた方も映っています。(合掌)

地元の若きコーラスグループが新年会に来ていただきました。

皆で幕の内弁当を頂き、酒を呑みビンゴゲームで盛り上がります。

今後はこのようなイベントは出来なくなるのでしょうか。

 

ふりむけば白井の桜酒の宴

  いまはリモート味気なきかな

 


はくおうかい2016

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8月の花&少年時代


8月の花2020

 関東の長い梅雨が明けたのが8月1日でした。急に暑い夏が来たので散歩も陽が傾いてから出掛けることにしました。

 8月の花「百日紅」は開花が早かったのか見どころなし。

 我がマンションの「花だより」を頼まれて編集しました。今年は外来種タカサゴ百合が駐車場などで大発生した。種子が運ばれて2,3年で球根が出来て花を付けるそうで、他の花などに影響を及ぼすらしい。

 マンションには「朴の木」が多いと思ったら、高木リストを見ると「泰山木」=たいさんぼく=というモクレン科の木だった。国民的詩人の坂村眞民先生が愛した朴の木とは違っていました。

 我がベランダの朝顔が毎朝、目を楽しませてくれます。ホオズキと並べて植えたら夏の風情があっていいもんです。

 猛暑の日常はステイホームと夕方のカメラ撮影で俳句をひねりながらの散歩です。撮った映像を編集してフェースブックに投稿と家籠りのコロナ対策バッチリです。

 年3回の飲み会が中止になりzoomでのオンライン飲み会に参加しました。7人が各々好きな酒を呑みながら2時間楽しめました。  

 そのほかは、昔の動画を引っ張り出して、youtubeのカラオケを使わせてもらい下手な唄のBGM製作で結構楽しめました。

これを聞かされるお友達には迷惑でしょうが…

 季節柄「少年時代」をレコーディング、田舎のお祭りなど題材にムービーにしました。ご笑覧アレ~

 我が少年時代は、えひめ吉田町実家前の横堀の川遊びやお祭りがいい想い出です。潮入り川が満ちてくると海水浴や魚釣り、夏祭りは桟敷から仕掛け花火のナイアガラが河面に落ちる光景が目に残っています。

 

 横堀の花火なつかし夏模様


夏模様(少年時代)

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逗子の別荘


「狂った果実」を唄ってみました

 トランパーの山下亀三郎は、逗子の桜山に大枚二百円を投じて別荘を建てた。

 別荘といっても板の屋根の小家屋だった。亀三郎は自伝「沈みつ浮きつ」で、別荘を持った動機に(その頃から、時々田舎の空気に接しなければ頭が変になるような気がする)と語っている。  

 亀三郎の郷里は愛媛県吉田町の喜佐方村で海のない盆地だったが、ちょっと行くと筋や奥南の海辺に出る。亀三郎は都会の喧騒をさけ、逗子の潮風を吸いたかったのであろう。

 その別荘に亀三郎は親戚古谷久綱の妻の一族を招待した。明治33年ころ伊藤博文の総理大臣秘書官を務めていた古谷久綱は山尾庸三子爵の四女と結婚した。山尾家は近代日本の名家で親戚筋に、木戸孝正、廣澤金次郎、前島弥(密の長子)男爵がいた。

 亀三郎は古谷の親族総代として、逗子の別荘にこれら木戸一族の四夫婦を招待した。

 自伝には(横浜から吉次という芸者を女中代わりに呼んだが、その大別荘の六畳の座敷に四夫婦を一先ず座らした時の格好というものは、全く大変な異彩であった)と書かれている。

 奇抜で宴席の座を持つことの上手い亀三郎は、地網を引かせ船で料理させて夕食を用意した。網では魚もとれ、舟の中は大変な騒ぎで、葉山の方まで漕いで行って騒いだ。

 爾来、40年後木戸幸一内大臣の母堂(先代木戸孝正氏未亡人)は、亀三郎に会うたびに、その時廣澤金次郎伯が帰りの汽車の中で酔っていて困ったという話をよくしたという。

 亀三郎の心づくしの接待で大酒を飲んで騒いだ様子が、ありありと想像できる。

 時は移り、昭和期に入ると逗子の別荘に、亀三郎の薫陶を受けた愛弟子の石原潔が住んだ。

 潔は亀三郎が落第した宇和島南予中学出身で、潔も中退して山下汽船に入った。当時は海運マーケットの中心は神戸と小樽で、潔は営業マンとして其々に赴任した。

 小樽から逗子に引っ越した石原家には、慎太郎、裕次郎というやんちゃな子供がいた。

 潔は子供らに大金をはたいてヨットを買った。慎太郎は弟の裕次郎らが起こす破天荒な遊びを題材に短編小説「太陽の季節」や「狂った果実」を書いた。これらは映画化され大スター「石原裕次郎」を生む。

 

 さて、暑い夏向けのカラオケムービーを製作しました。背景はイタリアベネチアの海です。

 カラオケムービーは、家に籠っている老人のせめてもの楽しみです。お目お耳汚しですが興味のある方はご覧くださ~い。

 

明治丸146歳


明治丸 海の記念日

 今日は「海の日」、今年はハッピーマンデーを止め東京五輪開催日の前日になった。

 「海の日」の由来について…

 時は明治9年6月2日、明治天皇は、東京を発って奥羽巡行の旅にでた。芭蕉が辿った「奥の細道」をなぞるように東北地方に向かう。共奉員は200余名、岩倉具視大隈重信大久保利通木戸孝允ら維新の元勲共であった。

 「明治天皇青森巡幸記」(青森市立新町国民学校/昭和16年出版)によると、明治天皇は、7月9日に青森県に到着した。10日一戸、三戸、11日五戸、12日七戸、13日野辺地、14日小湊と巡行し御泊りは青森市、16日青森港で「明治丸」に乗船、函館へ渡海された。当時は東京・青森間の鉄道はなく、山を越え川を渡る不便があった。天皇は殆ど御馬車を用い、険しい坂道は御馬、その他御板與で御巡幸された。

 明治丸は、18日午前10時函館を出航、岩倉、木戸ら161名が総トン数1230トンという大きくもない船に乗船しての航海だった。7月20 日午後8時無事横浜港に安着され、明治天皇は、21日目出度く東京へ御還幸あらせられた。

 後年昭和16年、時の逓信大臣村田省蔵(元大阪商船社長)が明治丸の横浜港到着した日を「海の記念日」にと提唱し、制定された。

 そもそも明治丸は、明治の新政府が英国グラスゴーの造船所に発注し、明治7年(1874)に竣工した鉄製の汽船で、灯台巡回業務に携わっていた。明治丸はその後、東京商船学校の練習船として使用され、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存され国の重要文化財に指定されている。

 この「海の記念日」7月20日が、平成8年(1996)から国民の祝日「海の日」となった。しかし、ハッピーマンデー制度で第3月曜日に替わったが、記念日は動かしがたいと海運界などが7月20 日を「海の日」として要望している。

 「海の記念日」が制定された昭和16年は、太平洋戦前夜で海運・船舶の重要性が問われていた時代。あえて村田省蔵明治天皇の御巡幸を取上げたのは、当時、海は怖い所、船に乗るには水盃が要ったという時代に、天皇自らが海に親しみ海運発展のため、辛い航海に就かれた。このお手本が戦時中の国民の精神高揚につながると考えたのではないか。

 多分、村田省蔵は海運界の為に一肌脱いだのだろう。『トランパー』の山下亀三郎も僚友の考えに賛同し、海国ニッポンの為に同調したに違いない。( そういうご時世だったのでしょう。)

 ブロガーが所属していた大型船組合は、「明治丸海事ミュージアム事業」へ寄附した。その関係で2014年7月、明治丸を見学に相生橋まで行ったが修復工事中で見れなかった。

 明治丸は御年、146歳まだ現役である。

 

  粋な人ゆかた姿に屋形舟

 

 

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トランパー裕次郎


口笛が聞こえる港町

 ブログ名を「トランパーいいかも」に改名しました。

トランパーとはTRAMP 彷徨うこと、海運用語では不定期船のこと。

テーマを決めず、気ままにブログ(ムービー)をアップします。

 昨日7月17日は、俳優・歌手石原裕次郎の命日でした。

ブロガーは、団塊世代で昭和30年代の映画スターに憧れた。潮の香りのするこんな大スターは今後出ないだろう。

 裕次郎の父親石原潔は、えひめ南予の出身で、地元の名士海運王・山下亀三郎が学んだ南予中学を中退、亀三郎を慕って山下汽船に入社した。やがて潔は、トランパー配船の名手として頭角を現した。

 裕次郎は山下汽船の本拠地神戸市須磨で生まれた。その後、父潔が小樽支店長に昇進し9歳まで小樽で過ごした。

 父が役員になり湘南逗子にあった亀三郎の別荘跡に引っ越し、慎太郎、裕次郎の青春時代が始まった。

 父潔はトランパー稼業で忙しい。本社勤めとなり連日の接待宴会で休む暇がなかった。ある日役員室で会議中にイビキをかいて眠った。会議が終わった重役連中は「石原は連夜の接待で疲れているのだろう、寝させてやれ」と席を外した。そのまま潔は天国に旅立った。壮烈な男の最期、51歳の若さだった。

 破天荒な裕次郎は「太陽の季節」で映画デビューするが、日活撮影所に海水パンツにサンダル履きで現れた。

 ブロガー想い出の歌がある。昭和33年、9歳のころ流行った、「口笛が聞こえる港町」である。

 実家は伊予吉田・本町にあり、子供の頃は満ち引きのある横堀川でよく遊んだ。すっかり暗くなった土手で、桜橋の街灯が川面に映るのを見ながらこの歌を口ずさんだ。なぜか街灯の陰が涙でにじんだことを想い出す。親に叱られたのだろうか?忘れたが多感な子供時代だった。

 ブロガーは2013年10月海運業界の若い人達と「石原裕次郎記念館」へ行った。最近の若い世代は石原裕次郎を知らないのでガッカリした。裕次郎の愛したヨット「コンテッサⅢ」があったが、裕次郎は小樽時代には船乗りになりたかったという。

 1987年(昭和62年)7月17日東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院で亡くなった。52歳だった。命日に石原プロは、来年解散するとニュースがあった。また昭和が遠くなった。

  今はなき潮の香りのナイスガイ

 

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7月の花


7月の花

7月1日は「半夏生」という季節の節目

何のことか知らなかったが半夏生という花があるらしい

どこかで見たことがあると調べて居たら

北総花の丘公園の建物の裏の池の周りに咲いていた

葉っぱが白くなる花で今まで気が付かなかった

朴の花も地味な花で、高所に咲くので目に付かない

恩師で詩人の「坂村眞民」先生は朴ノ木が好きだった

自宅にも朴ノ木を植え、詩も沢山創っておられる

ユズリハの木を最近知った

我が住まいの眼下に葉のよく落ちる木がある

古い葉は後進に道を譲るそうで、新葉が出るとさっさと

落葉する、なんと潔いよいことよ

71にもなって初めて聞く話にステイホームも捨てたものじゃあないか…

 

 コロナ禍や文月の花真っ白な

 

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